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私の母は昭和29年に馬路中学校を卒業しました。営林署の職員から読み書きと算盤の達者な女の子がいるとの評判で、営林署の購買所に就職が内定していました。
ところが古い考えを持った祖父から、一度は都会に出て世の中のことを勉強してこなければならない、とのことで大阪市住吉区にある呉服屋の下女として送られます。
この時のことを母は営林署というまたとない良い勤め先に決まっていたのに断らなければならなかった事を本当に辛く悔しかったと回想します。
呉服屋での仕事や生活は大変厳しく、母は貧しい田舎者として虐めのような辛い目に何度もあったそうです。朝ご飯も親族らが食べた後で1人だけの残り物処理で、味噌汁を口にしたのは働き始めて半年ほど経った時でした。出されたワカメの味噌汁を口にした時には世の中にはなんて美味しいものがあるのだろう! と感激したそうです。
3年の勤めを終えて母はまた馬路村の実家に戻ります。
母が就くはずだった営林署の事務員には近所の同級生が働いていました。母は忸怩たる思いで家業に専念します。
当時、我が家は製麺機でウドンを作り自転車で村中にウドンを売り歩いていました。私と妹の真弓は毎朝ウドンを作る製麺機の大きな音で目が覚めていました。
天気の良い日は母に連れられて一緒にウドンを売り歩いたこともあります。私が4歳の頃で、ウドンを買う人が甘露飴をくれたことを今でも嬉しく覚えています。